彼女の生活


 夜空にオリオン座があることを気付いたときには、もう十二月も終わりになっていた。空を見上げて星座を探そうだなんて、露ほども考えていなかったことを知る。
 吐く息は白く、鼻のてっぺんが冷たくて痛い。帽子も手袋も忘れてきてしまった。辛うじて巻いてきたマフラーに、口元まで埋める。申し訳程度に付けてきたリップが付かないように、唇をきつく閉じあわせた。髪の毛で隠した耳朶も少しずつ痛みだして、もう少しで頭痛がしそうだ。コートのポケットに手を突っ込んで、駅に唯一ある待ち合わせスポットで上半身を揺らす。少しでも温かくなることを期待するけれど、たぶんなりそうにない。
 待ち合わせスポットと言いながら、私以外には誰も立っていなかった。私が学生の頃はもっと大勢人がいたはずだけど、と思ったけれど、もうそれも十年以上前のことだった。私が確実に年を取っているのと同じで、この街も同じように寂れていっている。
 背伸びをしながら、改札の奥を探す。背伸びをしたところで見える範囲は変わらないのだけれど、気持ちだけが急く。待ち合わせの時間まではまだまだあるのに、寒いというだけで人は待っていられないものらしい。
 大荷物を抱えた女が、よろよろとホームから階段を上ってきた。あんなに荷物を持っているなら、エスカレーターに乗るなり、エレベーターだってあるのだから利用すればいいのに、彼女はそうしない。後ろから走ってきたサラリーマンらしき男が、迷惑そうな顔で彼女の横顔を睨んでいった。その気持ちもよくわかる。それと同時に、余裕のない男に呆れる。
 改札にガタガタとぶつかりながら出てきた彼女は(そのときも後ろの人に睨まれていた)、数歩進んで立ち止まって周りを見渡した(そしてもう一度睨まれる)。私から駆け寄っていこうかと思ったが、なんだか面倒でそのまま様子を見ていた。きょろきょろと目を丸くして小動物のように動く彼女を、変わらないな、と思う。髪型や体型や、そういった見た目はたしかに変わっても、行動や仕種や癖はなかなか変わらないものだ。
 ようやく私を見つけた彼女は、勢いよく歩きだした。すぐに躓き、心の中で、あーあ、と呟く。それでも彼女は私に近付くと、相変わらずの満面の笑みを浮かべた。目尻に皺が寄った。
「見つからないかと思ったー。人多いねえ。」
「いや、全然多くないでしょ。あんたはすぐ見つかったよ。」
「え、なんで声かけてくんないのよー。」
彼女はぷっくりと頬を膨らませた。子供か。この齢になってまだそんなことができることに、少し羨ましくさえなる。
 「先にホテル行く?」
「んー、お腹減った。」
「その大荷物で店に入りたくないんだけど。」
「えー。でも、お腹空いた。」
「まったく…、」
少しでも広めの店を頭の中に浮かべてみる。喫茶店、全国展開のチェーン店、食堂、ラーメン。近頃あまりにも一人で出歩くせいか、まったく思いつかなかった。
「なんか、食べたいものないの。」
「これといっては、」
「あんたはいっつもそうだね。」
「えー。」
確実に衰えてきている脳味噌をフル回転して、昔二人で行ったことのある店を思い出した。そこは比較的広かったような記憶があった。
「お好み焼き屋、まだあった気がする。」
「あ、いいね。懐かしい。」
彼女は笑顔で言う。私が毎日暮らす街のことが、彼女にとってはもう懐かしいものになっているのだ。
 店に向かう道中、あまり会話は弾まなかった。思ったより寒いとか、やっぱり混んでいるとか、彼女の住んでいる街はどうだとか、そんな当たり障りのない話ばかりだった。
 夕飯時より早かったからか、店はあまり混んでいなかった。すぐに座敷に通され、私たちは真正面よりも少しだけずれて、斜めに向かい合って座った。
 「何がいい。」
「んー、普通に豚玉?」
「もんじゃは。」
「あ、チーズとか。」
「チーズは嫌だ。海鮮も。」
「じゃあ、豚玉しかないじゃん。」
「豚玉と豚もんじゃで。」
「えー。まあ、いっか。」
彼女は少し不満そうにしたが、素早く店員を読んで手際よく注文してくれた。どんくさいとばかり思っていた一昔前の彼女からは想像もできなかった。生活が変えていく部分が、微かに見え隠れする。
 アルコールを受けつけない私に合わせて、彼女もジンジャエールを頼み、なんとなく乾杯した。何に対して乾杯するのか、久々の再会なのか、十年以上の友情へなのか、そんな歯の浮くような台詞を吐くわけもなく、私たちは黙って一口飲んだ。
 会話を切りだすのを躊躇った。電話をかけたのは私で、会うと言ったのは彼女で、会話の内容は既に決まっているようなもので、だからこそ話しだせないのだった。
 「で、どうなの。」
痺れを切らしたのか、それとも気を遣ってなのか、彼女は少しだけ上目遣いに私に視線を寄こした。私はもう一度ジンジャエールを口に含んで、ゆっくりと飲みこんだ。
 「なんか、もう、平気かも。」
「え、もう。」
「うん。」
「そういうものなの。」
「この一ヶ月で、だいぶ整理できたような、」
「もう一ヶ月、経ったんだ。」
「そうだよ。メールしたの、一か月前じゃん。」
「そうだったねえ。」
彼女は少し笑った。その笑顔を見て、なんだかすべてがありがたく思えた。
 彼女には彼女の生活があるのに、五年も会っていない人間のところに、わざわざやってきた。そういう人だ、と片付けるのは簡単だけれど、そういう人だ、とわかっていて連絡したのは自分だ。
 「でも、十年ぐらいのことを、一ヶ月で整理したっていうのも、なんか、その程度のことなのかなって思っちゃうよね。」
私は情けなく、へらっと笑った。彼女は笑わずに、じっと私を見つめた。
 笑ってくれて、いいのに。
 店員がやってきて、焼きましょうか、と尋ねてきた。彼女は、大丈夫です、と明るく答え、てきぱきとお好み焼きのタネを鉄板に乗せた。もんじゃ焼きの土手も綺麗に作られ、お好み焼きは見事にひっくり返された。私は正座を崩さずに、じっと黙ってその様子を見ていた。
「上手いね。」
「家でよくやるから。」
「お好み焼き?」
「うん。簡単だし、皆好きだし。」
「子供、元気?」
彼女は私をしばらく見てから、真顔で頷いた。別に、そんなところで気を遣わなくてもいいのに。そりゃあ、他人の幸せをやっかみたい気分ではあるけれど、それは私の気持ちなだけであって、彼女が幸せであることは全然構わない。
 お好み焼きともんじゃ焼きを半分ずつ食べたら、お腹がいっぱいになった。前に彼女と来たときは、もう一枚くらい食べていたような気がするけれど、そんな食欲はなくなってきていた。他の欲求だって、たぶん、どんどん減ってきている。
 店に並びはじめた列を横目に、私たちは外へ出た。鉄板の熱で温まった体が一気に冷える。なるべく冷えないようにと、いつもよりも速い歩調でホテルへ向かう。
 「明日は、どうすんの。」
「一応、実家に行こうかな。」
「まあ、そうだよね。ていうか、実家に泊まればよかったじゃん。」
「無理無理。今、お兄ちゃんの家族も住んでるんだもん。」
「え、そうだったの。あの兄ちゃんが。」
今の話よりも、昔の話を私たちはする。懐かしいのではなく、私たちの間にある世界は、いつまでもあの頃のままなのだ。
 「じゃあね。」
「うん、じゃあ。」
高校生のときには毎日言いあっていた言葉を、私たちは五年ぶりに交わす。
 ホテルに入っていく彼女を、私はぼんやりと見送った。フロントに立つ後ろ姿は、やっぱり知らない人のようだった。



BACK





inserted by FC2 system