火の粉


 「ミナオくんの年賀状、テーブルに置いといたよ。」
 起き抜けの彼に、志磨子はおもむろに言った。
 彼は「ん」とも、「あ」とも、「う」とも区別のつかない言葉で返事をしながら、のっそりと椅子に腰かけた。箱根駅伝をぼんやりと見ている志磨子の背後で、紙の擦れる音が聞こえる。テレビの中では、箱根の山を強風と健康的な四肢を持った若者が駆け抜けていく。彼女たちのいる場所はといえば、窓をきっちりと締め切ったストーブの生ぬるい風の流れる部屋の中だ。だいぶ遠く離れているのに、部屋の外と画面の中の空の色は一緒だった。
 紙を繰っていく音が、不意に止まった。志磨子は集中して駅伝を見ていられず、少しだけ首を動かして、目の端でミナオを視界に入れた。案の定、封書を持って彼は動かなくなっていた。
 「年賀状なのに、封筒って、珍しいね。」
「…うん。」
 ミナオは辛うじて返事をした。
 志磨子は何の飾り気もない茶色い長4封筒の上に几帳面に書かれた、細く繊細な文字を思い出す。ミナオの目に映っているだろう送り主の名前が、彼女の脳裏にも映る。
 突然、テレビの中から大声が聞こえた。驚いて二人とも目線をそちらに向けると、選手が一人倒れていた。
 「あーあ。」
 二人同時に落胆の声を上げた。ミナオは、今までの努力が無駄になってしまったと思った。志磨子は、こんなに辛くなるまで走って可哀想だと思った。
 顔が、怖いくらいに青かった。

 三が日も終えて普段どおりの生活が戻ってくると、部屋の掃除も単なる習慣なのだと思えてくる。年末の大掃除を考えると、志磨子は少し震えた。
 適当にはたきをかけていくと、彼の私物のCDの間に茶色い物が挟まっていた。あの封筒だな、と志磨子はすぐに気付いた。
 見つかりやすいとも言えず、かといって特別隠しているという場所でもなかった。昨日まであっただろうか、と志磨子は思い返してみたけれど、習慣に埋もれた記憶は曖昧なものだった。何の気なしに、彼女は封筒を引き抜いた。
 記憶よりも、美しい文字だった。
 やっぱり裏面には、志磨子の知らない町、知らない人の名前が書かれている。ミナオがそこに行ったことがあるのか、暮らしていたことがあるのか、彼女にはてんでわからなかった。志磨子が小首を傾げていると、ふと違和感に気付いた。封筒の表面を、そっと撫でた。
 封があのときのまま、きっちりと締められていた。

 年が明けて小正月まで、あっという間だった。この調子だと今年もすぐ明けてしまいそうだ、と志磨子は玄関先で恐ろしくなる。
 「どこ行くの。」
 休日だから、と昼過ぎまで寝ていたミナオがのっそりと近付いてきて言った。
 「どんと祭。」
「あれ、今日だっけ。」
「そうみたい。」
 どんと祭は彼女たちの暮らす町の神社で正月飾りを燃やす行事だ。志磨子も今朝のニュースを見て思い出したのだった。
 「もう燃えてる?」
「四時からって言ってたから、燃えてるんじゃない?裸参りが始まる前に行きたいから。」
 混雑を嫌う志磨子は、神社に着いたらすぐに正月飾りを火に入れ、さっさと帰ってくるつもりだった。紙袋をガサガサいわせて慌てた様子の彼女を見て、ミナオは自室へと戻っていった。また寝るのか、と志磨子は半ば呆れ、あとは諦めていた。が、ミナオは上着を着こんで、すぐに部屋から出てきた。志磨子は目を丸くして、じっと彼を見つめた。
 「俺も行く。」
「え。行くの。」
「うん。」
「寒いよ。」
「うん。」
 戸惑う志磨子を尻目に、ミナオは無頓着にスニーカーを履いた。外は雪が積もっているのに、と志磨子は心の中で呟いた。

 神社へと続く道は、既に車で詰まっていた。
 「もう混んでる。」
「こんなときに車で来る方が悪いんだよ。」
 志磨子とミナオは一時間かけて歩いてきたが、車の中で三十分待たされるよりも余程マシだった。二人は並んで歩くことなんて久々だったために、出かけてからやっと最初の会話をしたのだった。志磨子はほっと一息吐いた。息は白く上っていった。
 だんだんと、熱を感じる。御神火に近付いていることがわかる。幾家族もの正月飾りが集まり、巨大な山となって燃えている様は、いつ見ても不思議なものだった。ついぼんやりと見入ってしまう。頬があまりにも熱くなっていることに気付いて、志磨子は驚く。急いで持ってきた紙袋を投げ入れようとすると、隣から手を差し出された。
 「これも入れて。」
 ミナオの手には、茶封筒の手紙が一通つままれていた。
 「いいの。」
「いいよ。」
「ていうか、燃やしていいのかな。」
「紙だし、大丈夫でしょ。」
 迷いながらも志磨子は封筒を受け取り、紙袋の中にしまった。相変わらず、封は開けられていなかった。
 志磨子は勢いよく投げたつもりだったが、思ったよりも山の裾の方に紙袋は落ちた。
 「下手くそだね。」
 ミナオは、今日はじめて笑った。志磨子は、上手く笑えなかった。空っぽになった手同士を、二人は繋いだ。
 紙袋から封筒が少しだけ飛び出て、一番はじめに火が点いた。じりじりと火は進んでいく。中身があわよくば見えないか、と志磨子は凝視してみたけれども、見えるわけもなく、もうすぐそれは消えてなくなろうとしていた。
 それでもすべてなくなったことにはならないのに、と彼女は熱い瞳の中に残像が残るのを覚えた。
 パチッ、と松飾りの爆ぜる音が聞こえ、瞬間火の粉が上がった。二人は繋いだ手を握りしめた。舞い上がる火の粉を追いかけるように空を見上げ、彼も彼女もしばらくの間立ち尽くした。



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