薄荷


 わたしのなかが、からっぽになった。
 その理由は、よくはわからないけど、からっぽだ、と急に、感じてしまったのだ。
 生きていくことが、息苦しくて、吐き気がして、このままじゃあ、きっと、何かを、誰かを、傷つけてしまうと思った。
 だから、こうして、わたしは今、電車に乗っている。
 知っている人が、いないところに行こうと、入場券でキセルをした。
 鈍行で一時間、うっかり寝て一時間、気づいたら、夜の闇の中、山の姿しか見えなくなっていた。
 電車の灯りは、なにやらうすぼんやりとしていて、山の影が、襲ってきそうに見える。
 「おじょうさん。飴、いるかね?」
突然の声に、ビクッと首を向けると、年のわりには、ふくよかな、目尻が柔らかに下がったお婆さんが、わたしの目の前に座っていた。
「あ、ありがとうございます。」
皺のある手からさし出された薄荷の飴を、しずかに受け取った。
 お婆さんはそれきり何も言わず、飴を取り出すカサカサという音が、車内に、やけに響いた。
 本当は、貰わないほうがよかったのだろうか。早く食べてしまえ、ということなのだろうか。どちらにしても、あけてしまったからには、舐めなければいけない。
さっと、飴を口に放りこんだ。
 口の中で、コロコロと飴を転がすと、なんだか泣きそうなほど、体中が、ひんやりとしてきた。
 「おじょうさんは、どこに行く気なんだい?」
お婆さんは、こちらを見ることもなく、声をかけてきた。
「あ。ええと。…もうすこし、先まで。」
わたしはあわてて、ちらりと切符を見ながら言った。
 切符の値段は、一四〇円。実際は、一駅も、進めやしないのだ。
 プシューッ、と電車の扉が開いた。
 もう、いくつめの駅なのだろうか。
 「私はね、終点まで、行くんだけどね。このへんは、山ばかりでしょう。おじょうさんみたいな、若い子、来ることは、滅多にないんだけれどねえ。」
別に非難をしている様子もなく、お婆さんは、ふふふ、と微笑んだ。
 「…しのう、と、おもって。」
 何も考えずに、私の中から勝手に、言葉が出てきた。
 お婆さんは、びっくりしたふうもなく、ふむふむ、と頷いた。
 「わたし、からっぽだから、」
私は、俯いて、つづけた。
「なんにも、できないし。役立たずで。ぐずだし。なんか、みんな、わたしのことなんて、好きじゃないだろうし。」
 うずうずと、体の中にたまっていたものが、涙として、一気に流れた。
 そうだ。本当は、何か、とか、誰か、とかではない。
 私は、私自身を、傷つけそうだった。それならば、もう、いっそ、と、この電車に乗り込んだ。
 お婆さんは、また、うんうん、と頷く。
 「このへんは、山ばかりだからねえ。そう。山ばかりだから、山の恩恵にありつこうとする人もいれば、山に還ろうとする人もいる。おじょうさんみたいな、人は、たくさん、くるよ。」
お婆さんは、持っていた包みから、また薄荷の飴を出すと、わたしに差し出した。
 わたしは、黙って、再び舐め始めた。
 体中が、ひんやりとして、すーっと、心を落ち着けた。
 「私にとっちゃあ、おじょうさんは、ただこの電車で、たまたま、会っただけだし、たぶん、これからも、それだけだろうけどね。でも、おじょうさんは、私の飴を受け取ってくれて、それでいて、ありがとうと、お礼を言ってくれた。お礼を言える人は、私は、からっぽじゃないと思うよ。私にとっちゃあ、おじょうさんは、そういうもんだよ。」
お婆さんの言葉だけが、耳に入ってきた。
 電車の走る音も、外の雑音も、車内放送も、何もかもが消えた。
 「ああ。終点だ。」
お婆さんが立ち上がり、はっとした。
「おじょうさんは、降りないのかね?」
 わたしは、その場に突っ立って、お婆さんを見つめた。
 こんなにお婆さんは、小さかったのか。
 「次の上りの電車は、いつ、きますか?」
 お婆さんは、少しだけ目を大きくして、でもすぐに細めて、にっこり笑った。そして、こくこく頷く。
「待ってれば、すぐ、くるよ。」
 かえろう。
 からっぽじゃない、確証はないけれど、だれか一人のために、からっぽではないのならば。
 「また、ここに、きます。遊びに。」
私は、お婆さんの後ろ姿に、一生懸命に、そう言った。
 お婆さんは、振り返り、嬉しそうに返事をした。
「うんうん。遊びにおいで。私んち、すぐそこだからさあ。」
お婆さんの指さした先には、駄菓子屋が、ぽつんと建っていた。
 わたしは、ようやく、お婆さんに笑顔を見せた。
 「じゃあねえ。」
手を振り合い、わたしたちは、お別れをした。
 かえりましょう。
 体を、薄荷の匂いで満たして。
 きょうは、薄荷の飴を買って、かえりましょう。



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