エッヂ


 この町に暮らし始めて、三ヶ月が経った。日々は考えていたよりも平坦に進み、今目の前にある喫茶店の一杯のミルクティーさえ、当然のもののように感じている。空は、今日も晴れている。昨日も晴れていたっけ、なんて思ってしまう。昨日は、ざーざーとした雨だった。
 私がこの町に来た理由は、なんとかかんとか後期の試験で引っかかった大学に入学する、という、たったそれだけのことだった。特別この町を気に入っているわけでもなく、希望や情熱を持って大学に入学したわけでもない。気付いたら私は、当たり前にこの町に住みついて、生活して、生きている。平凡に、生きている。でも、この町に来た瞬間から私は、もうすでに枯れていたのだ。新しく歩いていくためのワクワクとした目も、すべてが(格好よく言えば、夢や不安が)溢れそうな心も、何も持っていなかった。入学式直前から、もう卒業する人のような空気を醸しだす私に、誰も近寄ろうとはしなかった。ただ例外だったのは、私の前の席でミルクティーを飲んでいる、サコタだった。
 サコタは、運ばれてきたときから甘いそのミルクティーに、さらに2杯、砂糖を入れた。私はそれを見るだけで吐き出しそうになるのだが、サコタは何食わぬ顔でそれを、ぐいぐいと飲んでいく。実はそのぐらい砂糖を入れたほうが美味しいのかもしれない、と思わされるのだが、一度だけ試したら見事に玉砕した。
 「今、何時?」
腕時計をしない私は、サコタの右腕を覗きこみながら尋ねた。カップをのろりと置き、サコタは私に腕時計が見えないように、右手を自分の目の高さに上げた。サコタは、ひょろりとしていて、のっぽだ。
「一時、二十五分くらい」
「…ふーん」
 サコタは元の位置に腕を戻し、じっと私のほうを見た。サコタは、決して人を見つめようとはしない。ただ、見る。
「講義、始まってるな、って思ってる?」
「…思ってないよ」
「思ってるじゃない」
「…思ってない」
そう言ってみても、サコタには気付かれている、ということがわかる。
 今、きっと二十番教室では職業倫理概論の講義が始まっている。自分を大人だと見せる教授と、たくさんの大人になりきれない生徒たちが、あのぎゅうぎゅう詰めの教室で、ひっそりと、まるでお祈りをするように九十分を過ごす。誰もが、たぶん、祈っているのだ。早く講義なんて終われ、って。
 「今日のは、出なくても大丈夫だよ」
サコタはまた甘すぎるミルクティーを口元に持っていき、薄っすらと笑んだ。
「なんで?」
「何故なら、休講だから」
そう言って、にんまり、と笑った。
「あ。ああー…、なんだ、そうか…」
私はなんだかぐったりとして、ずりっと体をずらした。
 「行儀悪いよ。ほら、店員さん、見てる」
「いいよ。サコタが何とかして」
「何とかって…、」
サコタは別段嫌に思った風もなく、ふふふ、と笑った。
 その優しそうな(あくまで、優しそうな)笑顔のまま、飲み終わったカップをソーサーに行儀よく据え、ぽつっ、と喋り出した。目線は、自分の指からずらそうとはしない。
「大学の、掲示板も、見に行ってないんだね」
「…。うん、そうだね。そう、」
「そう、って」
「そうだから、そう、じゃん」
「そうだね」
「そうだよ」
そう、そう、ばっかり言っていたら、可笑しくなって、私は、眉毛を変に動かして笑いそうになったのだけれど、サコタが一切笑わないので、眉毛だけが動いた。今までに見たことがないほど、変な顔をしているだろう。
会話は、それぎり途絶えた。サコタは無表情になり、こちらを見ようともしない。私は居心地の悪さを感じながらも、サコタのことも、この喫茶店のことも、好きでたまらない。だから、動けない。
 どんなにしてもできてくるささくれをいじり、時間を潰した。そっとサコタを一瞥したり、店員の様子を見たりしたが、どちらの時間も動いていないように見える。それとも、私だけが動いていないから、周りの景色がどんどん遠くなって、わからなくなって、感じられなくなっているのだろうか。
 ぎくり、とした。私は、だらりとしていた体を起こし、椅子に深く腰かけた。どこを見ればいいのか、と冷や汗をかいたときに、外だ、とひらめいた。外を見なければいけない、と啓示が降ってきた。
 風を切る音がなるほどの勢いで私が外を見たので、サコタも驚いたのか、やっと視線をそちらに移した。
 喫茶店は、駅前の交差点のビルディングの三階に位置しているため、顔は自然と下へ向いた。
 驚いた。
 平日の昼間なのに(いや、だからなのか)、信じられないほどの人間がいた。この時間に交差点を歩いたことはあったのに、そこまで他人を感じたことは、なかった。ゆっくりと歩く人、足早に目的地へ向かう人、それぞれがそれぞれのスピードで、歩いていく。昼の陽光に彩られ、すべての人が、キラキラ、として見える。
 「あ、」
私は、口を、あ、の形にしたまま、すべての動作をストップさせた。サコタが不思議に思ったのか、小首を傾げた。
「みずたまり、」
「…うん。あるね、水たまり」
「に、空が、反射してるね…」
サコタは瞬時に気付いたのか、少しだけ目を大きくした。
「みんな、雲の上を、歩いてたんだねえ…」
私は、ほうっとため息をついて、俯いた。
 この町は、天国、だったのか。
 ここが天国なら、私が行き着くところはどこなのだろう。みんなが行きたいところはどこなのだろう。天国という場所は終わりじゃなかったのだろうか。この天国のビルディングの三階で、私は天国を見下ろしている。天国の、またその上は、いったい何の国だろう。
 「雲の上も歩いてるけど、地面も歩くよ、みんな」
サコタは左の人差し指で、一人、また一人、と軌跡をなぞっていく。
「じめん、」
「明日、曇って、灰色の雲がたちこめて、暗く暗くなったら、そんなに陶酔したようになれるの?水たまりには、何にもうつらないよ」
私はボーっとした頭で、サコタを見つめた。じっと見つめた。好きな人の顔だった。とてもとても真剣な、サコタの顔だ。
 「サコタ、」
「何?」
「ここは、どこ?」
サコタは、固まったまま、でもすぐほどけた表情をして、私の頭上数十センチから、言った。
 「ここは、地球だよ」



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