遠き世界に陽は


 そそくさと帰ろう、と玄関に向かったら、外には三上さんがぼんやりと空を見ながら立っていた。本当に、ぼんやり、と、棒立ちしていた。
 ダウンジャケットに包んだ自分の体は芯から冷えていて、両手で両腕を抱えていたのだけれど、寒くも暑くもなさそうに三上さんのコートの裾がひらひらと風に揺れているのを見たら、私も両腕をだらんとして、突っ立ってしまった。
 三上さんは、私が玄関をすごい勢いで出てきたのを、気付かずにいる。少しの音もたてずにこの玄関を出るのは、ギイギイと唸るこのドアではあまりにも困難なのだ。それなのに、三上さんは自分の見ているもの以外に、刺激を感じていないようだ。私の前にも、このドアを通った人はいるはずで、三上さんがどのくらいの時間ここに立っているのかはわからないが、とても、変なことに思えるのだった。
 「三上さん、」
私は思わず声をかけた。一度、二度、そうして三度。三上さんは、本当に、今気付いた、というように、ゆっくりと顔をこちらに向けて、いつもどおりの笑顔をした。どうしたんですか、と聞くはずだったのに、その顔を見たら、続けて声が出ない。
「どうしたの」
と、逆に三上さんから聞かれてしまった。
 きゅっと締まる胸らへんを押さえて、私は苦く笑った。
「今、帰ろうとしてたんです。三上さん、帰らないんですか」
「…ああ、うん。帰ろうかな。うん。帰ろうか」
そう言った途端、三上さんは視線を私から即ずらして、さっさと歩き出した。私はついていこうかいくまいか逡巡したけれど、ちらとも振り向かない三上さんがいじらしいので、三上さんの左後ろを、のろのろと歩くことにした。二人とも、一人きりで帰っているようなものだ。
 三上さんは、私なぞいないように歩く。すたすた、と歩く。すたすた、と歩いているのに、速度は遅い。私は三上さんに合わせて、歩く。
 すたすた。のろのろ。すたすた。のろのろ。
 三上さんがどこを見ながら歩いているのかがわからない。前を見ているのか、空を見ているのか。私は、少し先の地面を見たり、三上さんの顔を真っ直ぐ見たり、そんなふうに見ては、自分の視覚を恨んで、いたたまれなくなるのだった。
 三上さんも電車を利用するから、行き先は同じのはずだ。このまま歩いていってもいいとは思いつつ、私はどうしようもなくなり、歩みを止めた。
 三上さんは止まらない。三上さんは一言も何も言わない。三上さんは私には気付かない。
 「三上さん、」
少しだけ、声を大きくして、言った。喉を、ごくり、としてから、もう一度、呼んだ。
「三上さん、」
三上さんは体全部を私に向けて、ふいっと息を吐き出した。私の眉の間に刻まれたいたいけな皺のあたりを、三上さんはじっと睨んでいる。
 「…君は、いつも何か言いたそうだね、」
三上さんは、そう言って悲しそうに笑った。
「いつも、僕に、何か言いたそうだ。何?」
そう言いながらも、三上さんが何も聞きたくないことを、私は知っていた。何も、聞こえるわけがないのだ。無理に笑った顔を作って、聞けないものを聞いて、いつだって、きっとこれからだってずっと、私なんか目にも入らずに、遠いところばかり見るに、決まっている。
 「…手を、」
私は、三上さんの視線を避けるように、右手で顔上部を隠した。
「手を、繋いでもいいですか」
わかっていて、それでも私は言うのだ。言わずにはいられない。
 わかっていることは、たぶんほんのちょっとのことなのだろう。三上さんが、ここにはいない人間を見つめている、ということだけなのだろう。それが三上さんのすべてではないことも、わかってはいる。けれども、三上さんのほんのちょっとが、私のすべてを大きく支配する。
 三上さんのほんのちょっとの部分さえ、私には壊すことなんてできない。
 三上さんは無表情で私に近付き、左手をそっと取った。三上さんの右手は、冷たくて硬くて、けど、私を動かす生きている手だ。
 坦々と、歩いた。
 三上さんは、遠くばかり見ていた。私は、足元ばかり見ていた。
 この人は、もうずっとこのままなのだろう。遠くを見てしか、生きていけないのだろう。
 どうして、このそばにあるものを、求めてはいけないのだろうか。
 私は強く握れずにいる広い掌のことを求めてしまうのだ。今ここにある、それだけを見て、生きていくのだ。
 十分ほどの駅までの道のりは、長く険しい、一人きりの帰り道だ。



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