光る虫


 サザナミが珍しく夜中に、散歩に行く、と言うので、シオ子はついていくことにした。
 ドアを開けると、ねっとりとした空気が二人の顔面を撫でた。重い夏の風に行く手を阻まれながら、二人は速度を変えながら歩いた。夜でもこんなに暑かったのだなあ、とシオ子は呑気に空を見上げた。星の粒が綺麗だ。部屋の中ではいつもクーラーがかかっていて、すっかり外気のことを忘れていた。
 サザナミとシオ子の、サクッサクッ、としたサンダルの足音だけが夜気に響いた。サザナミは本当に散歩に行きたかっただけで、シオ子がいることが鬱陶しそうにも見えた。シオ子はサザナミのことが好きなのに、好きだからなのか、よくわからなかった。一緒にいれば大丈夫だ、などと何故思ったのだろうか。
 少しだけ、涼しい風が吹いた。シオ子は目を細めた。川の近くに来たのだとそのとき気付いた。
 「あ。」
 シオ子は小さな川の上の光に、目を丸くした。
 サザナミは何にも気付いていないようで、歩幅そのままに歩きつづけている。
 「ねえ、」
 シオ子はひっそりと呟いた。わざと、サザナミには聞こえない小ささで声をかけた。サザナミには本当に聞こえていないようだ。
 シオ子はしゃがみこみ、頬杖をつきながら蛍をぼんやりと見た。今にも消えそうな光が揺れている。草いきれが去って、蛍もいなくなる。いつのまにか夏じゃなくなっていくのだろう。シオ子は自分の鈍感さに驚いた。この前まで川辺の草たちは枯れていたんじゃなかっただろうか。
 シオ子はふうっと短く溜め息をついた。
 「何してんの、シオ子。」
「サザナミ。」
 シオ子がしゃがんだまま顔を上げると、いつのまにサザナミがシオ子の横に立っていた。サザナミは両手をジーンズのポケットに入れて、右足で草を軽く蹴った。長い前髪で、サザナミの目は隠れていた。
 シオ子はゆっくりと前方を指差した。
 「蛍。」
「ああ。」
「驚かないんだね。」
「毎年のことだし。」
「だって、どんどん減ってるんだよ。今どき、珍しいんだよ。」
「ふうん。ただ腹が光ってる虫だろ。」
「サザナミは夢がないねえ。」
「虫に夢もクソもあるか。」
 たしかに、ただの昆虫に夢も何もない。昼間に見たら、気持ち悪いと思って、シオ子は簡単に殺してしまうかもしれない。夜に光っているだけで、どうして特別だなんてと思ってしまうのだろうか。
 「シオ子、行くよ。」
「うん。」
「シオ子?」
「うん。行っていいよ。」
 シオ子は目を閉じた。
 どうして特別なんてあるのだろうか。
 「ほら、シオ子。」
 シオ子が目を開けると、眼前にはポケットから出されたサザナミの右手が白く光っていた。シオ子はじっくりとそれを眺めた。
「こんなとこじゃ危ないだろ、行くよ。」
 シオ子は数秒躊躇ったが、左手をサザナミの手に重ねた。繋いだ手が、ブランコのように揺れた。
 「サザナミ。」
「んー?」
「明日も散歩しようよ。」
「えー。」
「何それー。」
 シオ子は、揺れる二つの腕と揺れる淡い光を見ながら、そうーっと微笑んだ。明日、この光はないかもしれない。シオ子はそれでも、このまま光りつづけるとさえ、信じられた。



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