ぬるい影


 真夜中に男の家に行ったら、男は影になっていた。
 あらあらまあどうしたの、と尋ねたら、いやはや体を持っていかれた、と言う。
 もちろん影のため口はない。身振り手振りで伝えてきた。しかし、所詮影だ、重なったり消えてしまったり、この文一つに三分はかかった。ウルトラマンに伝える前に、殺されてしまう。
 いや、もう体はないから、殺されはしないのか。
 そんなことを思いつつ、私は、ふーん、と頷いた。
「誰が持っていったか、わからないの?」
そう聞いてみると、男の影は考えているような格好をした。別に格好でわかるはずもないのだからしなくてもいいのに、たぶん腕を組んでいる。影だけを見れば、腕のない男子トイレのマークのようだ。
 男の影は思いつき、なんとか伝えようとしているのだが、さっぱりわからない。
 影が文字を書いても、それを影が邪魔をして、見えやしないのだ。それか、この人は書き順が滅茶苦茶で、私には理解できないのかもしれない。
「どうしようもない。ちょっと、その人のところに連れて行ってよ。もしかしたら、体を返してもらえるかもしれない」
男は激しく頭を振り、走って玄関を出て行った。
 「ちょっと、ちゃんと電灯のあるところを歩いてね」
とたとたと早歩きをして、男の影を追った。
 意外に都会、と呼ばれるこの市でも、繁華街をちょっと離れれば、人通りは少ない。だからこそ電灯を置くべきなのに、と思うけれど、経済的にそれは叶わないらしい。私たち(傍目から見れば、私一人)が歩く道も、電灯の間隔は若干長く、薄暗い。影が見えにくく、ふと目をそらすと男の影を見失ってしまいそうだ。手をつなげればいいのだが、体のない男には到底無理な話だ。
 なるべくずっと男の影を見ていようと、ひっきりなしに男に話しかけた。どちらかというと、私が話しかけるよりも、男の影の動作を見ている時間のほうが長かったが。
 「その人は、どういう人なの?」
―――女だよ。
「お付き合いしてるの?」
―――さあ。
「じゃあ、友達?」
―――うーん。
「それは付き合ってるってことじゃないの?」
―――お前は、女と、俺が、付き合ってると、思うだろう。でも、ちょっと、違う。
「私にはわかんないな」
―――いいよ、いいよ。
「…まだ、着かないの?」
―――あの、角のブロック塀を、右に曲がって、少し行ったところだ。
「アパート?」
―――うーん、もうちょっと、大きい。
「マンションに一人で住んでるの?すごいねえ」
―――まあ、そうかな。そこ、そこを曲がって。
「ああ、あれだね。でかい」
―――そうでもないよ。小さい、ほうだろ。
「私はダメだな」
 マンションの真正面に着くと、その背の大きさに、具合が悪くなりそうだった。異様な圧力を覚える感覚や、無意味な劣等感、被征服感、ビルディングと呼ばれる建物を見ると、いつもそうだ。
 それに加えて、マンションはきれいすぎて苦手だ。隙のない管理人室、セキュリティ、オートロック。ぴっちりと、できあがっている。きれいであることで誤魔化している牢獄だ。そこに暮らす人は我儘に暮らしているはずなのに、私にはどうしても、牢獄で暮らしているイメージしか浮かばない。だから、一生、マンションには住まない。
 「夜中の三時なのに、管理人さんもいる。玄関もオートロックだね」
―――影が、入ってきたら、驚くかな。
「そりゃ、驚くよ」
―――まいったなあ。
「…しょうがない。私だけ行って、話をつけてくるよ。部屋番号を教えて」
―――え。や。それは、ちょっと…、
「そのままでいいの?」
―――でも、
「いいのね?」
―――そういうわけじゃ…、
「だったら、早く!」
―――……ちぇっ。わかった。
「じゃあ、まず何階?」
男の影は両手を挙げて、十、と示した。
 このマンションは、十階建てくらいだろう。となると、随分と上のほうに住んでいる。
 「部屋は?」
今度は片手で、三を作った。
「じゃあ、一〇〇三号室だね」
確認をとると、男の影は、こくこく、と首を揺らした。
 「私は行ってくるから、待っててよ。そこの生け垣の影にでも隠れていて」
男の影は言葉どおりに、影の中に隠れて、見えなくなってしまった。
 いなくなったんでは、と思い、生け垣の影を、どすりどすり、と足で踏んでみると、男の影が手だけを出して、手を振った。
 痛くもないのか。呑気なものだ。
 私も手を振り、いざ参ろうか、マンションのドアを開けた。
 はじめての場所だ、少しなりとも緊張はする。一〇〇三、一〇〇三、と頭の中で復唱した。
 そろそろり、とオートロックキーに近づいているのが不審だったのか、管理人と目が合ってしまった。何もやましいことはしていないのだが、手に汗をかいてきた。ちょこ、っと頭を下げた。管理人は訝しげな目をしていたが、慣れているんだろう、さほど気にかけるふうでもなかった。
 ゆっくりと息をついて、オートロックキーに番号を打った。
 一。〇。〇。三。呼。
 ピンポーン。
 押してから、今さらだが疑いを持ちはじめた。
 女が留守だったらどうしようか。もし、男が出たら。男が嘘の部屋番号を教えていたとしたら、どうだ。わりとしぶっていたのだ、そういうこともしかねない。
 ガチャッ。
 私の思考をよそに、女の甲高い声が聞こえてきた。
「はい、どちら様?」
これほどのマンションだ、きっと私の顔があちらからは見えているのだろう。
 ここまで来たのだ、あとはもうやるしかない。喉を、ごくり、と言わせた。
「あなた、ありた、おうか、でしょう」
緊張のあまり、さん、を付けるのを忘れてしまった。瞬間、しまった、と思った。
「誰?」
女の声は、明らかに怪しんでいる。
 どうせばれてしまうのだ、今言ってもいいだろう。男の名前を告げ、知り合いなんだが話がある、そう女に告げた。
 女はそのとき、ふふっ、という笑みを漏らしたようだった。
 赤い口紅をべったり付けるような女なんだろう、女の笑い方には、そう思わせる雰囲気があった。
「上がってきて。わかってると思うけど、十階の一〇〇三号室よ」
女は既に、勝利を確信しているような口ぶりだ。私はあんたなんかに勝負を挑むつもりはない、ちょっと腹立たしい。
 目の前のオートロックのドアが、優雅に開け放たれた。
 お化け屋敷に入る直前みたいだ。
 やけに大きく足音が響くエントランスを、わざとすり足で歩いた。つり、つり、つり、
 そうしていたら、危うく壁にぶつかりそうだった。案外、エントランスは狭かった。エレベーターも一つしかない。マンションを毛嫌いしていたから中身をよく知らないが、やはり狭っ苦しいものなんだろうか。
 エレベーターはちょうど一階に下りてきており、そわそわと待つこともなく乗ることができた。ボタンを押し、動きはじめるのをじっと待った。
 エレベーターが上へと動きはじたのを感じて、そうっと背を壁に押し付けた。
 エレベーターに乗るのも、苦手だ。特に、下がっていくのは。いくら便利だからって、変に重力を感じるのは、気味が悪い。同じような理由で、ジェットコースターも苦手だ。
 しかし、今から訪ねる相手は十階にいる。階段で行くこともできるが、ここで体力を使ってしまっては、話し合うことは難しい。あの声からして、気性の激しい女だろう。一瞬の呼吸の合い間で言い負かされては困る。
 エレベーターは動いているのに、静かすぎる。気味悪い。余計なことを考えてしまう。
 あの女は、何も知りやしないだろう。何から話し、どう説明しようか。まあ、どうせ…、
 少しばかり、にんまりと笑い、考えていたら、エレベーターは目的の階に辿り着いた。
 当たり前だが、女の部屋は三番目のところにあった。一〇〇三、としっかりと表札に書かれている。このご時世の一般人のように、名前は書いていない。
 呼び鈴を鳴らすと同時に、ドアは開いた。待ちきれない、と言わんばかりの勢いで。
 「やっと来た。どうぞ。早く入って」
有田桜花は、口角をくっきりと上げてほほ笑んだ。
 予想に反して、有田桜花は化粧気のない、すっきりと素朴な印象の顔をしていた。髪の毛もウェーブとかロングとか、いろいろ想像していたが、耳のあたりで切りそろえられていた。
 だが、甲高い声も、ちょっとばかり嫌味な口調も、さっきの女だ、と確認できた。
 「まったく、真夜中に訪ねてきて、私が寝ていたら、とか思わなかったの?結構、あんたって、バカなのね」
有田は、楽しそうに、けど見下したように笑う。
 ああそういえば、夜中の三時だった。忘れていた。でも、私は知っていた。だから、来た。
「あなたは、夜中の三時に寝るような人じゃないでしょう?」
私は、努めて穏やかに笑顔を向けた。有田の眉が少し上がった。だが、すぐに戻った。
「そうです。そのとおり。はは、嫌な女だなあ、あんた」
 有田は、朝に寝て昼から夕方に起きる、そういう生活をしている。仕事の関係上、そうするよりほかないんだろう。だいたいどういう仕事かは、想像がつく。
 男は金に困っていたようだし、有田にすがる気持ちは、しょうがないのかもしれない。
 マンションの外観から見てみると、中はあまり広いとは思えない。廊下はあるにはあるけれども狭く、そんなに長くもない。玄関から、普段食事に使っているのだろうよく磨かれたテーブルも見える。部屋も何室かあるみたいだが、今はどうでもいいことだ。
 有田は、すたすたと廊下を歩いていき、テーブルに近づいていった。
「お茶とかコーヒーとか、飲むの?どうせインスタントだし、すぐできるわよ」
「いえ、いりません」
「あっそ。じゃ、私だけ飲むわ。イスに座ってて」
 有田は、イライラしたり、ドキドキしたり、心臓がいつもより余計に動くと、喉が渇く質なのだろう。そういう人に水分を取るな、と言っても無駄だし、私もそこまで意地悪ではない。
 私も廊下を進み、一番はじめにあったイスに腰かけた。
 有田は、ざっざ、とインスタントコーヒーの粉末をこれでもか、というほどカップに入れ、お湯を注いだ。通常よりも濃く淹れないと、やってられないのだろう。
 コーヒーが出来上がると、するすると私の真向かいのイスに有田は座った。私と目を合わせずに、コーヒーを一口飲んだ。
 きれいな口の形をしている。眉はくっきりと上がり目、目は主張するようなばちっとした二重、鼻はすっとしている。どこもかしこも、恐ろしく強気に見せるが、口だけはきれいだ、と思った。あんなに人を馬鹿にした笑みを浮かべなければ、それからもう少し抑えた声の出し方をすれば、もっと違う印象が持てるのに。
 「あの人の話で、来たんでしょう?」
有田の声で、ぱっと目線を上げた。ずっと口ばかり見ていたので、有田が私の目を見ていることに気付いていなかった。
「あんた、最近、仕事場の近くでよく見るわ。あの人のことで、私に何かあるの?」
「そう、そうです。あの人のことですけど、忘れたらどうでしょうか」
有田は右手で頬杖をつき、少しの間、沈黙した。
 「…あなた、市子さんでしょう?あの人から、いろいろ聞いてるわよ」
あらあら。私は思わず、くっ、と笑いがこぼれた。本当は、高笑いをしたいくらいだった。
 なんだ、知っているのか。
 いや、でも、知っている、って言ったって、どのくらい知っているんだ。私があの人の前の彼女だってことをか?あの人とまだ繋がりがあることをか?それは私がしつこくあの人を追うからだってことをか?本当はあの人は私を早く追い払いたいということをか?
 どこまで知っていてもいい。たぶん、このくらいのことは、全部知っているのだろう。有田はそういう表情をしている。
 「ははっ。だったら、話は早いや」
私が妙な顔つきになり、態度が急変したことに驚いたのか、有田は無口になった。
「あなたも、影になるべきですよ」
私は、優しく優しく、笑った。そうして立ち上がり、ゆるやかに有田に近づいた。
 「な、にを言っているの?あんた、本当のバカでしょう?」
「残念ながら、馬鹿ではないんですよね」
「ちょっと、あの人、どこにいるの?あんた、」
「ここ二、三日見てないでしょ。当然、当然」
私は、有田の肩に手を軽く置き、にっこり笑った。
「だって、あの人馬鹿だから、食べちゃったもの」
 有田の顔は引き攣り、体は小刻みに震えていた。半分信じられない、半分私の行為に脅えているのだろう。
 「女を食べる趣味はないんだけど、今回はしょうがあるまい」
有田の肩を、二度、三度、ぽんぽん、と叩いた。
「残念。今回は成り行き上、ごめんなさいね」
 極上の笑みで、有田もさぞ幸せになれただろう。

 まったく、今回の男はしつこかった。今までの男なら、必ず私を選んで、相手の女を殺ってくれたのに、最近の人間は欲が深くなってきた、ってところかしらね。私のために女を殺す男を食べるのがおいしいのに、今回の男はひどかった。まずいまずい。宮中の男も、何万石の大名も、どこぞの大臣も、終戦で疲れた歩兵も、魚屋の息子も、みんなみんな、おいしかったのに。
 寝てる隙に食べる、っていうのもよくなかった。最も恥ずべきことだ。何も気付いていない男の影を見るのは、滑稽きわまりない。
 それにしても、はじめて食べたけれど、女もなかなかおいしい。
 今度は男になって、女を食べることにしようかしら。それもいい。
 え、影?影なら、そのへんに転がってるんじゃないかしら。私は、影には興味がないから。
 ただ、誰だって影になれるのだから、気をつけたほうがいい。私はいつでも飛んでいきますからね。それだけは言っておきましょうか。



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