月夜の散歩


 先日、隣りの家のキヨさんが亡くなったと聞いた。
 突然のことではないのだ。そういえば、ワシもキヨさんと同い年じゃった。ふと、思い出すと、わけのわからぬ焦燥感と不安にかられる。
 ワシもそろそろかのう。
 「じいちゃーん。おさんぽいこうよー!」
見れば、玄関で孫娘のリンが笑顔でこっちを見ていた。
 ああ、あの子とも、別れねばならぬのだなあ…。
「すまんのう、リン。じいちゃんは足が痛くて、お散歩に行けんのだわ。一人で行っておいで」
リンは少し残念そうな顔をして、かけあしで外へ出ていった。
 ワシの足はもう、歩くのもつらいくらいだ。散歩などしたら、きっと折れてしまうかもしれない。昔はリンくらいの速さで、走ったものだったのに。時の流れとは、恐ろしいものじゃな。
 ゆっくりと下りてゆく太陽の光があたたかく、ワシは目を閉じた。
 目を開ければ、そこはまだ、ワシの家だった。
 まだ、生きておるのだな…。
 太陽はもう沈み、夜がやってきていた。星も、月も、いつもより眩しい。
 ワシはその眩しさに目を細めた。
 さあ、どうしようか。
 ワシはそろりと、娘、息子とリンの部屋のドアを開けた。三人は仲良く、眠っていた。相当なことがない限り、起きないだろう。
 リンの顔を覗き込み、その顔が笑顔なのがわかると、なんだか微笑ましかった。娘、息子は、リンを守るように寝ている。
 「いい娘、息子、そして孫も…。ありがたいのう……」
 ワシは、リンが起きぬよう、頭をそっと撫でた。
「いい子にするんじゃよ」
ワシは三人をふり返りつつ、部屋をあとにした。
 「夜の散歩へとくり出そうかのう」
 ワシが月明かりに照らされている。地面を歩くのは、いつぶりだろうか。この感触。すっかり忘れておったわい。やはり、家にいるより、ずっといい。
 「あれ?リンとこのじいさん?」
 声の主を見ると、それは真向かいの家のコタロウくんだった。
 「おお、コタロウくんかね。久しぶりじゃのう。夜の散歩かね?」
「まあね。今日は月が気持ちいいだろ。それにしても、じいさん、一人で散歩なんて…」
コタロウくんは何か、はっとしたように、続きを言うのをやめた。
 「じいさん…」
「ほっほっほっ。コタロウくん。リンを頼むからなあ」
 ワシはコタロウくんに笑いかけ、ふり返らずに歩き出した。
 コタロウくんは、じっとワシを見ているようだ。
 今、ふり返ったらきっとワシは止まってしまう。立ち止まってしまう。ここで、歩くことをやめるわけにはいかんのじゃよ。
 ようやく、目的地の公園に着いた。
 昼は子供たちが、うるさいほどいると言うのに、この夜の静けさ。まるで、ワシを待っていたかのようじゃのう。
 ワシは、今までの足の痛さが嘘のように、この公園の象徴とも言える、大木に近づいた。
 この大木は、雷だか、台風だかで、亀裂が走った老木だ。亀裂が走ってまでも、こうしてたたずんでおる。なんて、強いのだろう。ワシも、木に生まれたかった。
 大木を下から上まで、十分に見てから、ワシはその亀裂の穴に入った。
 チリン、チリン……。
 どこからか、鈴の音が聞こえてきた。
 あれは、確か、キヨさんがいつも持っておった鈴の音じゃのう。
 ワシの頭上には、くっきりとキヨさんが笑って立っていた。隣りには、商店街のゲンさん、その隣りには、タケさんがおる。
「あれ、キヨさんにゲンさん、タケさんまで……」
 ワシはふっと笑うと、とても泣きたい気分になってきた。
 「ありがとう、ありがとう……」
ワシは泣きながら、叫んでいた。その声は、夜の闇に、深く、溶けこんでいった。
 人間には、ただの薄気味悪い、猫の鳴き声にしか、聞こえなかっただろうが。

 朝は、構わずやってくる。
 「かあちゃんー!じいちゃんがいないの。リンをおいて、おさんぽにいったのかなあー」
リンは、玄関から首を出して、元気な声を出す。
 母親は言う。
 「そう。じいちゃんはね、やっとお散歩に行けたのよ。一人で、ゆっくりと…」
 目に、涙を浮かべて。
 それを見せぬよう、リンに頭を寄せた。



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