五月晴れ


 電車を降りると、五月らしい爽やかな空気が喉を通った。たったの一ヶ月ぶりだというのに、懐かしい、という気持ちがこみ上げてきた。
 自分がホームシックになるとは、まったく考えていなかった。新しい生活は、当たり前だけど新しいことばかりで、目まぐるしかった。これが五月病というやつなのか、と思い浮かんだら、急に体が重くなった。家を出たくて出てきたはずが、連休に実家に帰ることをあっさり決めた。
 改札を出ると、母親がにこやかに佇んでいた。これもまた、なんだか懐かしかった。
 「おかえり。あ、違うか。いらっしゃい。」
「何それ。それも変でしょ。」
 母は快活に笑った。
 私の荷物を受け取ろうとしたが、断った。母は何度かまばたきをしたあと、ゆっくりと歩き出した。
 「何か食べていこうか。」
「いいよ。」
「それ、どっちのいいよ。」
「食べていってもいいよ、のいいよ。」
「どっちでもよさそう。」
「いや、食べたいです。」
「よろしい。」
 久しぶりに会話をしたけれど、緊張感はなかった。ずっと一緒に暮らしていたときの方が、よっぽど緊張していたような気がした。
 そういえば二人で並んで歩くことも、随分なかった。実際に距離ができたぶん、私と母の間の風通しはよくなったのかもしれない。
 五月の風が吹く。母の短い髪と、私の長い髪を揺らした。すっかり葉桜となった枝が、目の前で音を鳴らす。日差しの緩やかな、暖かい昼間だ。
 ぽつぽつと建つビルの隙間を縫って、目指す場所へ母はぐんぐんと進む。何も言わないが、行き着くところはなんとなくわかる。
 さびれたビルたちを通り過ぎて、何も変わっていないな、と思っていたところで、不意に何もない空間が現れた。
 「あれ。」
 思わず声に出た。そこにはたしか、アパートが建っていたはずだった。同級生が住んでいたから覚えている。今にも崩れそうな、木造の二階建てだった。
 「ここ、アパートじゃなかったっけ。」
「ああ。そっか、知らないのか。この前ね、取り壊したんだよ。」
「そうなんだ。」
「もうだいぶ古かったからね。危ないとかって。」
「ふうん。」
 ここに住んでいたあの子は、どうなっただろうか。引っ越して、どこかで生きているんだろうが、私にはその子諸共、突然消滅してしまったように思えた。
 一ヶ月でもこの街を離れたら、本当はいくつものことが変化しているのだ。何も変わっていないなんて、ありえない。これから先、私は何年もこの街に住むことはない。その間に、何がどう変わっていくのだろうか。
 「なんか、切ないもんだね。」
 再び歩きはじめて、私は言った。
 「何言ってんの。こんなことしょっちゅうでしょ。」
「まあ、そうなんだけど。」
 気温は上がってきているのに、ビルの陰はひんやりとしていた。
 隣を歩く、頭半分小さい母親を見た。髪の毛が半分白かった。
 「最近ね、あの店、ちょっと味が落ちた気がするんだよ。」
「え、そうなの。」
 目の前には予想していたとおり、子供の頃からよく来ていたラーメン屋が暖簾を下ろしていた。
 「ちょっとあんたも、調査してみてよ。」
 母親は悪戯っぽい笑顔で、私を見上げた。
 よし、と気合いを入れて、私は頷いてみせた。二人で笑い合いながら、暖簾をくぐり抜けた。



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